Este es el sitio oficial del Gobierno de Chile durante el período 2010-2014. Para ver el sitio actual, haz click aquí.
ChileAtiende Chile Avanza con todos Legado Bicentenario

Gobierno de Chile

English

チリ共和国大統領 – セバスティアン・ピニェラ・エチェニケ

セバスティアン・ピニェラ・エチェニケは1949年12月1日にチリのサンティアゴでホセ・ピニェラ・カルバジョ(1917-1991)とマグダレナ・エチェニケ・ロサス(1919-2000)の間に生まれる。1973年にセシリア・モレル・モンテスと結婚し4人の子供の恵まれ、現在は8人の孫がいる。

チリ・カトリック大学卒業の経済学士で、米国のハーバード大学で経済学の修士号及び博士号を修得。

子供時代

ホセ・ピニェラとマグダレナ・エチェニケの6人の子供のうち3番目。キリスト教的教育、多元主義教育、自由ではあるが義務を重んじ、公共サービスに対する使命感を重んじる教育を受ける。

1950年に父親がCORFO(生産助成公社)の初の海外事務所の代表者として任命されたため家族と共に渡米する。

チリに帰国後、ドイツカトリック系の学校であるVerbo Divino校にて初等教育及び中等教育の一部(1955-1964)を受ける。そのクラスで優秀な生徒のひとりとして際立った存在であった。またスカウトの活動にも積極的に参加した。

1964年に大統領に当選したエドアルド・フレイ・モンタルバによって父親が在ベルギーチリ大使に任命されたため、ヨーロッパに渡航しブリュッセルのSaint Boniface校にて中等教育を続けた。そこで、その頃ヨーロッパに広まっていた大規模な学生運動精神に触れ心酔した。1967年に父親がチリの国連大使に就任した時に、チリに帰国し高校の最終学年をVerbo Divino校にて終了した。

学生時代

1968年にチリ・カトリック大学の経済学部に入学した。当初からこの社会科学が恵まれない人々の生活の質を向上するための重要なツールとなるということを理解していた。1971年に経済学士として卒業し、その年の最優秀生徒としてRaúl Iver賞を受賞する。

1973年米国のハーバード大学にて経済学博士号を取得するために渡米する。博士号を取得した時の彼の論文のタイトルは「開発途上国における教育経済学。小論集」。

ハーバード大学の学生時代に著名なエコノミスト達と関わった。その中の何人かはノーベル賞を受賞したエコノミストである。准教授を務めた。また、そこで自由、民主主義、および米国の様な国が持つチャンスの価値を知ることができた。

家庭

1973年、渡米する前にセシリア・モレルと結婚した。セシリアはCarlos Casanueva専門学校で家庭・青少年のカウンセリングを学び、Mayor大学の家族・人間関係の学士である。二人の子供は、歴史と地理の教師のマグダレーナ(1975年生れ)、小児科医のセシリア(1978年生れ)、経済学士のセバスティアン(1982年生れ)と心理学者のクリストーバル(1984年生れ)の4人である。

余暇には家族や友人などとスポーツなどのいろいろな野外活動をして過ごし、また料理も楽しむ。大の読書家で、世界史には特別の関心がある。

学術

1976年にチリに戻り、それ以降主に教育に専念した。チリ・カトリック大学、チリ大学、Adolfo Ibáñez大学の経済学部及びバルパライソのビジネススクールにて教鞭をとる。

同時に、Banco Interamericano de Desarrollo (BID、米州開発銀行)のコンサルタント(1974-1976年)、世界銀行のコンサルタント(1975-1978年)、そしてComisión Económica para América Latina y el Caribe(国連ラテンアメリカ・カリブ経済委員会)でも仕事をした。この最後の機関では「ラテンアメリカにおける貧困マップとそれを克服するための政策」というプロジェクトに積極的に参加する。

起業家

その年(1976年)クレジットカードのVISA及びMasterCardのチリにおける総代理権を取得したため、Bancard S.A.を設立する。それによってこの信用支払いの新しい方法をチリ人がアクセスできるようになった。同様に。CMB S.A.、Las Américas不動産 S.A.、Aconcagua建設、Editorial Los Andes出版社の設立に参加した。また、Appleのチリの総代理権を取得、後にLan Chile、Chilevision、Blanco y Negro(スポーツクラブ)などの企業の株主となる。

公共サービスの人間

1988年10月5日の国民投票では軍事政権の継続に反対する投票をし、民主主義の復活のために積極的に関与した。

1989年に妻セシリア・モレルと共に、現在も維持されているMujer Emprende財団(起業する女性財団)を設立した。この財団の目的は貧困環境にいる若い女性の訓練・育成を促進することである。(www.mujeremprende.cl)

さらに、全てのチリ人が文化に近けることを目的としたFuturo財団を1993年に設立した。そのために“El arte se acerca a la gente”(芸術は人々に近づく)、“Yo descubro mi ciudad”(自分の町の発見)、 “Museo a la mano”(美術館を身近に)そして “Pasantías culturales para profesores”(教員のための文化研修)の教育プログラムを作成した。同様に、財団は市民のためのプロジェクトとして“El Mapocho navegable”(航行可能なマポチョ川)、“Transformación del Estero Margamar” (マルガマル河口の改築)、そして “Estadios para Chile”(チリのための競技場)などを開始した。(www.fundacionfuturo.cl)

Futuro財団は環境への取り組みを行ってきている。2005年にはチロエ島南部にTantauco 公園を開園した。公園は14万ヘクタールの広さを持ち、220kmの小道があり、キャンプ場も備え、そこでビジターはトレッキング、釣り、バードウォッチングや回遊するシロナガスクジラを観察することができる。公園ではエコシステムや絶滅危惧種を維持し保護しており、維持可能のエコツーリズムを促進し、それに関しての調査をしている。(www.parquetantauco.cl)

さらに、長年Hogar del Cristo(キリストの家)の顧問であった。また、数々の委員会に無償で参加した。その中には、外務省の諮問委員会及び元大統領のリカルド・ラゴスによって創立されたComisión Bicentenario(建国200周年委員会)のメンバーでもあった。

政治家

1989年の上院議員選挙では、8ª Circunscripción de la Región Metropolitana Oriente (首都圏州東部第8選挙区)でのPacto Democracia y Progreso(民主発展同盟)系の無所属候補者となった。その結果、1990年から1998年の間上院議員を務める。そしてその時にRenovación Nacional(国民革新党)の党員となる。

上院議員としての任期中に、財務、人権、健康、環境、国有財産の常任委員会に参加した。彼の環境に対する懸念は、環境と自然保護に関する法案を提出したことからもうかがえる。

その民主的精神は、大統領、国会議員及び市長・市会議員選挙の際に無所属議員も政党からの候補者と同様に立候補できることを目的とした、政党の設立、投票と開票さらに地方自治体に関する基本法を改正する法案を提出したことによって明らかにされた。さらに、政党設立を簡略にするための法案も提出した。

人間の生殖補助技術の法的・倫理的原則を規制し、違反者対する罰則を確立する法案のプロジェクトにも関与した。

上院議員任期中に、アンドレス・サルディバル上院議員と共に最良上院議員として同僚から選ばれた。

候補者

2001年から2004年までRenovación Nacional党(国民革新党)の党首を務め、2005年の5月にConsejo Nacional de Renovación Nacional (国民革新党評議会)によって大統領候補者として擁立された。2005年12月の大統領選挙では、セバスティアン・ピニェラの得票率が25.4%、ミッチェル・バチェレが45.9%で、いずれも過半数を得ることができず、決選投票が2006年1月に行われることになった。その決選投票では、ミッチェル・バチェレが53.5%を獲得し、46.5%のセバスティアン・ピニェラを抑えた。

それ以来、3つの重要な活動に集中した。チリ全国を回り人々のニーズ・要求に耳を傾けること。2008年の区長・区会議員選挙でAlianza por Chile (チリのための同盟)の立候補者に付き添うこと。そして、1200人以上の専門家が将来の政府の公共政策を研究し提案するための37の作業部会を構成したTantaucoグループを設立したことであった。

2009年5月にCoalición por el Cambio (変革のための同盟)が創立された。この新しい同盟には、Alianza por Chile (チリのための同盟)に属していたRenovación Nacional(国民革新党)及びUnión Demócrata Independiente(独立民主連合)、そしてChile Primero(チリ第1党)、Humanismo Cristiano(キリスト教人間主義党)、Norte Grande(大北部)と無所属の新しい力が招集された。この新しい同盟が正式にセバスティアン・ピニェラをチリ共和国の大統領候補者として擁立した。

大統領選挙キャンペーンは、“Cambio, Futuro y Esperanza”(変革、未来、希望) と “Súmate al Cambio”(改革に参加しよう)のキャッチフレーズのもとに国民に直接接したのが際立った。そして、それを強制する法律が存在するわけでもなく、まだ候補者の立場であったにもかかわらず、2009年4月、公開株式会社の自分の持ち株の管理を4社の投資ファンド管理会社に委託し、自発的に財産信託をした。

大統領

2009年12月13日の大統領選挙では、44%の票を獲得し、Concertación(民主政党連合)からの候補者のエドゥアルド・フレイ・ルイスタグレと共に決選投票に向かうことになった。2010年1月17日の決選投票で、51.6%の票を獲得しセバスティアン・ピニェラが新大統領に選出された。

2010年3月11日に国会にてセバスティアン・ピニェラはチリ共和国の第47代大統領に就任した。